市立浦和監督・中村三四物語(1)

 剛腕、大砲がいたわけでもない。普通の高校生を一つに束ね、強豪を次々と撃破。勝つたびにナインは口癖のように「信じられません」。いつしか人々はこう呼んだ。「ミラクル市高(シコウ)」―。1988年夏、浦和市立高(現市浦和高)を率いて、埼玉大会をノーシードから初優勝し、続く第70回全国高校野球選手権でベスト4に導いたのが、中村三四(さんし)だ。あれから24年、今でも「何で勝てたのかな」と笑って首をかしげる。埼玉が燃えたあの夏、「さわやか旋風」を巻き起こしたベテラン監督は今年60歳を迎え、定年のため第94回大会が最後の采配となる。最後の夏、どんなフィナーレを迎えるのか。

 第94回大会組み合わせ抽選会を翌日に控えた6月18日、チームはくじ順の作戦会議を開いた。抽選はシード校以外は到着順。「早い順番でくじを引き、どんと構えることにしよう」。当日の19日、唐川、太田の3年生女子マネジャーが3番目を確保した。主将津田が69番を引き、中村監督は相手が決まるのを腕組みをしてじっと待った。「68番、浦和北」。対戦が決まった。

 「抽選が終わると気合が違うね」(中村)。初戦は7月15日の日曜日。球場は学校と道を隔てた反対側にあるさいたま市営浦和球場。まさにホームグラウンドだ。「うれしいね。やっぱりあそこだと落ち着く」。乗りやすいタイプの指揮官らしく、練習にも一層熱が入る。

 1952年4月4日、新潟県柏崎市(旧刈羽郡高柳町)、農家を営む父・一雄と母・ふみの三男として誕生した。6人きょうだいの末っ子。男で3番目、4月生まれだから「三四」と名付けられた。

 東京・十条を経て、川口市に引っ越してきたのが小学校6年の時。街頭テレビで目にした長嶋茂雄(当時巨人)に憧れ、中学から野球を始める。本格的に取り組んだのは名門・川口工高に入学後だ。

 1年から捕手としてベンチ入り。2年秋の新チームからは主将を任された。秋季県大会を制し、関東大会でも準優勝。ただ確実視されていた選抜大会には選出されず「キツネにつままれた感じ。釈然としなかった」。気持ちを入れ直し、夏の甲子園出場を目指し練習に明け暮れたが、西関東大会出場を懸けた試合で宿敵・熊谷商高に0−1で惜敗し悲願達成はならなかった。

 日体大に進学後、「夢はプロ野球選手だったけど体が小さくて諦めた。でも野球が面白くて、生涯携わっていたかった」と指導者への道を志し、大学に通いながら母校・川口工高の練習を手伝った。

 76年、県陽高の定時制に保健体育の教師として赴任。野球部の監督を務めた9年間で定時制軟式野球県大会で3連覇を含む4度の優勝。全国大会では2度の8強入りを果たした。

 ただ、やはり「全日制で高校野球の監督をやりたい」という気持ちは高まった。勤務時間前には、自宅近くの高校の練習を見に行った。新設校ができると聞けば工事現場にまで足を運び、「このグラウンドの広さからして、野球部ができそうだな。こっちの高校は狭そうだな」とリサーチするなどしていた。

 85年4月、ついに念願がかなった。当時の校長・小出勇吉に定時制時代の実績を買われ、浦和市立高に赴任。同年夏の大会後、新チームから野球部監督を任された。「浦和市立監督・中村三四」の誕生である。このとき33歳だった。(文中敬称略)

埼玉新聞