埼玉唯一の甲子園Vは大宮工!次はどこだ

 激戦の関東地区にあって意外なことだが、埼玉県勢の甲子園制覇は1度しかない。

 昭和6年春のセンバツで、川越中(現川越高)が甲子園初出場。夏の選手権初出場は、昭和24年の熊谷高まで待たねばならなかった。熊谷高は同26年夏に県勢初の決勝進出を果たすが、準優勝に終わっている。

 初の全国制覇は、それから17年後。昭和43年春の大宮工だ。

 まさに“傷だらけの栄冠”だったといえる。エースの吉沢敏雄は肩痛に苦しみ、鎮痛剤を打ちながら病院から甲子園に通った。

 準々決勝。優勝候補の平安(現龍谷大平安)戦は39度の発熱で、全身に発疹も。試合中、監督の山崎小二郎が何度も「代わろう」と声をかけても、吉沢は「腕が折れてもいいです。平安を倒したいんです」。完投勝ちした後、病院に運び込まれた。

 翌日の準決勝は箕島高戦。病院から甲子園に向かう吉沢に、医師からは「苦しんだら交代させる」という条件付きで許可が出た。そんな苦境で完投勝ちし、決勝の尾道商戦も1点差で勝って優勝…。

 大宮工は、その夏の甲子園にも出場したが(2回戦敗退)、甲子園は後にも先にも、この昭和43年だけ。1年だけ輝いたチームとなった。

 吉沢は慶大に進んで三塁手に転向。第1回の日米大学野球の代表に選ばれ、社会人の東京ガスでもプレーした。監督の山崎が何度も交代を考えた控え投手の佐藤敬次は、プロ入りして東京(現ロッテ)と南海(現ソフトバンク)に在籍した。

 大宮工とともに、埼玉県勢で甲子園ファンの記憶に残るチームが、上尾高だ。プロの投手だった野本喜一郎が監督になり、強豪に育てあげた。

 埼玉・不動岡中(現不動岡高)時代に剛球投手として鳴らした野本は、プロ引退後の昭和33年、上尾高の監督になった。以来、春・夏の甲子園に6回出場(4強1回)。上尾高を埼玉県を代表する強豪に育て、多くの教え子をプロに送った。

 代表格が山崎裕之。上尾高の甲子園初出場だった昭和38年春の遊撃手は、その当時から「長島二世」と呼ばれた。自由競争の時代、大争奪戦の末に東京(現ロッテ)に入団。西武時代も含め、通算2081安打したスラッガーとしてプロ野球史に名を残した。

 野本は、プロ野球時代に下手投げに転向した経歴もあって、下手投げの好投手を育てた。会田照夫、江田幸一、仁村徹らだ。会田はヤクルト、江田は日本ハムで活躍。甲子園の名勝負史に名を残したのが仁村だ。

 昭和54年夏の甲子園。1回戦でドカベン香川伸行牛島和彦のバッテリーの浪商高(現大体大浪商)と対戦。9回2死まで2−0とリードしながら、牛島に同点2ランを浴びて敗れた。

 仁村は東洋大から中日入り。プロ初勝利は、その牛島にリリーフを仰いだ。内野手に転向後は勝負強い打撃で貢献。2軍監督やコーチを歴任し、現在は楽天の2軍監督を務める。

 アマ球界の指導者も育った。仁村と同期の福田治男は、桐生一の監督となって平成11年夏に全国制覇。森士(もりおさむ)は浦和学院の指揮を執っている。

 上尾高監督を退いた野本が、浦和学院の監督となったのは昭和59年。3年目の同61年夏に甲子園出場を果たしたが、野本はベンチ入りできなかった。その夏の7月に入院し、県大会は病床から采配。甲子園大会の開幕日の8月8日、64歳で亡くなった。

 浦和学院はその甲子園で4強入り。2年生で4番を務めた鈴木健は、西武とヤクルトで通算1446安打した。野本の“最後の教え子”といえる選手だ。

 他のOBには、現巨人打撃コーチの清水隆行や横浜DeNA投手コーチの木塚敦志。現役では巨人・石井義人。西武・坂元弥太郎は、平成12年夏の甲子園で大会タイ記録の1試合19奪三振。そのときの控え投手が広島・大竹寛だった。

 埼玉県勢の甲子園準優勝校は前出の熊谷高と、春日部共栄、大宮東、聖望学園の4校。

 大宮東はオリックス北川博敏や西武・平尾博司ら、聖望学園阪神の野手キャプテン・鳥谷敬らを輩出している。

 元大洋(現横浜DeNA)の4番で、通算2095安打の松原誠は飯能高。巨人の大エースとして沢村賞3回の斎藤雅樹(現コーチ)は、市立川口高の出身だ。

 大宮工の甲子園優勝から44年。次に頂点に立つチームはどこになるのか。=敬称略、終わり

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