市立浦和監督・中村三四物語(3)

 1985年、中村が浦和市立野球部に来て、感じたことは「とにかく真面目で一生懸命な選手が多い」。だがその半面、土壇場になると気持ちが引けてしまい力を出せないことも感じていた。

 同年8月、監督に就任すると練習試合で11連敗。そこでまずチームに施したのが、メンタル面の強化だ。「俺がガーっと言ったら負けずにかかってこい。監督が大声を出したときがポイントだぞ。気合が入っているとき、腰を引かずに向かってこい」。練習から闘争心を植え付けていった。

 徐々に成果を挙げ、甲子園に出場する前年の1987年、第69回大会で西沢−小池のバッテリーを中心に16強に進出した。

 そしていよいよ右腕エース星野、主将の?手、横田、阿久津、津田、鬼塚らの代となる新チームが立ち上がった。秋季大会は古豪・川口工高に打ち勝つなど、県大会でベスト16。順調なスタートを切った。

 冬を越し春季大会前の静岡合宿。県外の強豪校を相手に、土壇場で劣勢をひっくり返したり、接戦をことごとくものにした。当時の部長・川又茂浩が中村に「こいつら強いぞ」と言ったほどだ。

 手応えをつかんで臨んだ春季大会。だが落とし穴が待っていた。南部地区予選で与野に大敗。5回まで3−0とリードしながらその後11失点。エース星野は打たれ、バックも守れなかった。

 どん底を味わったチームは弱さを自覚し、猛練習が始まった。練習試合は連戦連敗。遠征先からグラウンドに戻って反省点を繰り返し練習した。

 中村も懸命だった。「星野にインコースの使い方を覚えさせる」と剣道の防具を装着しブルペンの打席に立ち、星野に内角攻めを徹底させた。夏の大会前の合宿では夜10時ごろまでグラウンドで怒鳴り散らし、近所の住民から苦情を受けたほどの熱血ぶりだった。

 進学校ならではの頭脳野球にも力を注いだ。

 中村は試合で起こり得る全ての場面を想定し、守備陣や走者の動き方、攻撃パターンなどをB5判の紙に手書きでまとめた。それを基に攻守合わせて二十数通りにもなるサインプレーを含めた連係プレーに基礎練習の大半を費やした。

 それでも練習試合は負け続けた。夏の大会前夜、春の地区予選敗退チームがその後、日本中を熱狂させる快進撃を見せるとは、この時点では誰も知る由がなかった。

埼玉新聞

※大変申し訳ありませんが連載の続きは紙面等でご確認下さい。