市立浦和監督・中村三四物語(2)

 「監督との出会いが全て。出会えなければ今の自分はいない」。中村はそう言い切る。監督とは川口工を長年率いて1977年には夏の甲子園に導いた名将・大脇和雄(故人)。高校時代の恩師だ。

 大きな体で見るからに怖そうな風貌。中村は第一印象をこう語る。「目を見て話せなかった。言えることは『はい』だけ。ただ、優しそうな雰囲気はありました」

 中村は1年秋、あまりに練習が厳しく、野球をやめようと思ったことがあった。何かと理由をつけ、練習を休む日が増えた。ある日の練習中、打撃練習で捕手を務める中村の後ろに大脇はすっと歩み寄り、ネット越しに「ここが頑張りどころだな」と一言。大脇は中村がやめようとしていることを見抜いていた。「背中をふうっと押された感じがして・・・。見てくれてたんだ。監督に恩返しがしたい」と心に誓った。

 主将として甲子園を目指したが、かなわなかった。高校2年夏には体の小ささを理由にプロ野球選手になる夢を諦めたものの、「ずっと大好きな野球に携わりたい」と指導者への道を考えていた。日体大野球部を1カ月足らずでやめた時、大脇に呼ばれ再び背中を押された。「高校の体育の先生になったらどうだ。俺の元で勉強するか」

 「目の前がぴかっと光り、『高校野球の監督になるぞ』って、強く再確認できた」。大学に通いながら川口工の練習を手伝い、大脇の勝負勘と熱血指導を学んでいった。

 85年、浦和市立(現市浦和)監督に就任した後、恩師との対決は2度あり、いずれも終盤の逆転劇で勝利した。特に一大旋風を巻き起こして初優勝した88年夏の埼玉大会では準決勝で激突。川口工はこの年、関東一の剛腕と評された五島と、スラッガー鯉渕を擁し、優勝候補の一角だった。

 浦和市立は六回に3点差を追い付き、八回には2点を勝ち越して6−5で逃げ切った。試合後の整列では、大脇監督と目を合わすことができず「うれしさが一番だったけど、一抹の寂しさもあった」と明かす。

 大脇は2004年2月1日、72歳で亡くなった。川口市内の中村の自宅から恩師が眠る墓まで、さほど距離はない。自転車での通勤途中、少し遠回りして墓の前を通る。その時は必ず帽子をとって一礼。「おはようございます。失礼します」(文中敬称略)

埼玉新聞