壁を越えろ あと一歩の甲子園<1>松山高校

 第92回全国高校野球選手権埼玉大会は7月9日、県営大宮球場で開幕する。たった1枚の甲子園への切符を懸け、今年も白熱した戦いが繰り広げられる。参加159校のうち、春夏含めて甲子園出場経験校はわずか27校。残りのチームはまだ見ぬ夢を追い続けている。頂点に届く力を持ちながら、高い壁にはね返されてきた5校の挑戦を追う。

◇受け継がれる情熱

 創部87年目の名門・松山にとって、この春はひとつの転機だった。OBの松崎真監督に代わり、同じくOBで部長を務めていた瀧島達也監督が就任したからだ。瀧島監督は1998年に久保田智之捕手(阪神)を擁し、滑川(現滑川総合)を率いて夏の甲子園16強の実績がある。

 主将の輿水(こしみず)左翼手は「野球の形などが変わって切り替えるのが大変だったが、自分たちの先輩なので本当に気持ちがこもっていると感じる。それが“マツコウ”の強み」と、2人の恩師の教えをプラスに変えている。

 その思いは指導者にとっても同じだ。「練習場所がなくて1年生が周りを走っているのを見ると、『おれも走っていたな』と思って、ふと親近感がわくんだよ」。昨年4月、母校に転勤してきた瀧島監督はそう言って愛嬌のある顔をほころばせる。

 「監督と選手だけではなく、先輩と後輩のつながりがある。それをもっと強くできれば、甲子園を目指せるところにいけるんじゃないか」。人間関係から野球をつくる瀧島監督らしい言葉だ。

 松山が最も甲子園に近づいたのは84年の夏だった。当時3年の瀧島監督は5番・一塁手でグラウンドに立っていた。準決勝の埼玉栄戦では、同点の八回に決勝適時打を放つ活躍。だが、決勝は上尾に2−8と完敗した。

 「これに勝てば甲子園と意識しないで淡々と試合に入った。決勝の重みや意味が理解できなかった。集中し切れず力が出せないまま終わってしまった」と後悔だけが残った。

 だから、指導者になり、滑川で西埼玉大会決勝に進んだ時は試合前に選手たちに言い聞かせた。「チャンスを逃したこのおれをみんなが越えていけ」。チームは1−0で川越商(現市川越)を下して優勝。自身も選手時代に届かなかった夢をかなえた。

 「公立が狙って甲子園に行くのは難しい。努力と準備を重ね、やるべきことをやってチャンスが来るのを待つ」。瀧島監督はその好機を手繰り寄せるため、粘り強さや勝負強さをチームに植え付けたいと考えている。

 選手は今年の春休みに遠征のバスの中で、松山と上尾が戦った決勝のビデオを松崎前監督に見せてもらったという。永野投手は「打線がつながっていたし、一致団結していたのが分かる。こういうチームになりたい」。思いは確かに後輩たちに受け継がれている。その成果を表現する真夏の戦いはもうまもなくだ。

埼玉新聞