最後の夏「幸せだった」 春日部東・中野監督

 球児に人間力を諭し続けた教育者がユニホームを脱いだ。23日、上尾市民球場の5回戦で県立春日部東高校が敗退。来春、定年退職する中野春樹監督(59)の球児と挑んだ最後の夏が終わった。「高校野球は部活動。長い人生に向け、人間としての力を身に付けさせるもの」と、信念を貫き抜いた。

 熊谷商を相手に2点を追う九回2死。主将の若月和也選手(3年)が二塁ゴロに倒れ、敗れた。1995年夏、越谷西を率いて甲子園の土を踏んだ名将は、グラウンドで深々と頭を下げた。

 北海道今金町出身。三男として生まれ、幼少期は巨人の長嶋茂雄に憧れた。プロ野球選手を夢みて、自宅近くの野山や小川で遊び回った。地元の今金中、今金高校で野球部に所属。甲子園と縁はなかったが、高校では主将としてチームをまとめた。

 教諭、そして高校野球の指導者との人生設計を固めたのは高校生の頃。「選手としての限界を感じた」。進学した東京学芸大でも野球は続け、投手として活躍した。

 76年4月、新人教諭として幸手商・定時制に着任した。その3年後、越谷西に創立と同時に赴任、野球部の監督に就いた。越谷西で19年間指揮を執り、95年には埼玉大会を制した。42歳だった。「当時は全てにエネルギーがあった」。今では帽子の際から白い髪ものぞく。春日部東に進学してきた息子雄太さん(23)と、甲子園という同じ夢を追い掛けた時期もあった。

 強豪私学に挑み続けた夏だった。「常に生活の中で考えて動くこと。人間力がつき、それが強豪校との試合で土壇場に生きてくる」。野球の技術以上にあいさつや脱いだ靴そろえなど、選手の日常生活を正した。

 「最後に勝敗を分けるのは人間性。そう監督から教えてもらった」と若月主将。春日部東高野球部ОBで中野監督を慕い、同部でコーチを務める日下部直哉さん(25)は「中野監督は一から十までは教えない。三まで教え、あとは考えさせる指導だった」と自身もそんな監督になりたいとうなずく。

 中野監督にとって、短期間で成長を見せる選手の姿に、指導する醍醐味(だいごみ)があった。ただ選手に成長をもたらす特効薬はないという。「指導する上で大切なことは、適度な“肥料”と、適度な“水”でしょうか」

 試合後、選手から胴上げされた。終始クールに装っていた監督も、この時ばかりは照れ笑った。選手を前に「監督として33回目の埼玉大会。これで負けは32回」と回想し、夏空を見上げた。「34年間、大病もせずに続けてこられたのは幸せだった」。照り返しの強い夏の日差しに、まぶしそうに目をつぶった。

埼玉新聞