亡き母の思い背負って 本田敦也投手(富士見3年)

 「家族で甲子園に行く」。昨年八月に母・治子さん=享年(48)=を亡くした富士見・本田敦也投手(三年)の夢はかなわないまま、最後の夏が終わった。

 本田投手は小学生の時に、兄・大貴さん(19)の後を追うように野球を始めた。2人で「お母さんを甲子園に連れて行く」と口癖のように繰り返しながら、野球を続けてきた。

 5年ほど前に、治子さんの病気が悪化。大貴さんは“野球留学”した山梨県の帝京第三で、二〇〇八年夏の県大会の決勝に進んだが、敗れた。

 「野球センスのある敦也に期待した」(大貴さん)。同年、高校に進学した本田投手へ家族の夢は託された。入退院を繰り返していた治子さんも家にいる時は、弁当を作り続けた。

 しかし治子さんは、昨年八月五日に、肝硬変で死去。「敦也がんばれ。行けるかな、甲子園」。亡くなる数日前、治子さんは意識がもうろうとする中、病床でつぶやいた。

 本田投手は、母が亡くなった翌日も、チームの練習試合に参加。完投勝利を収めウイニングボールを、母のひつぎにささげた。

 以降、1年間は「がむしゃらにトレーニングしていた」と父・徹さん(51)。1時間半かけて自転車で通学、冬には毎日100メートルダッシュを何本も走り、限界まで体をつくった。

 今大会は、徹さんが全試合、治子さんの遺影とともに観戦した。この日は、140キロ近い速球と、カットボールを武器に、今春のセンバツ大会に出場した花咲徳栄を、五回まで零封。だが六回に捕まり、降板した。

 「母には『いままで応援してくれてありがとう』と言いたい。まだ野球を続けるつもりなので、これからも応援してほしい」と試合後、本田投手は前を向いた。

 大貴さんは、「プロになりたいと言っている敦也を支えたい」と、専門学校を辞め、今年四月に就職。目標は変わったが、母と家族の期待を受けて、本田投手は投げ続ける。

東京新聞埼玉版)