全力の応援で恩返し 骨折でベンチ外れる 本庄一・長谷部選手

 本庄一のスタンドから、ひときわ大きな声援を送り続けた3年生がいた。1年生からレギュラーだった長谷部辰徳選手(18)だ。大会直前の練習試合で死球を受け、左ひじを骨折。最後の大会はベンチ入りさえかなわぬ失意の夏となった。それでも「これまで多くの人に応援してもらった。恩返ししたかった」と3年間の感謝を込め、声を張り上げた。

 野球を始めたのは小学校1年生の時。そのころから「努力は怠らない子だった」と父・庄治さん(55)も認めるほどの練習の虫。学校から帰宅後も遅くまで素振りやティーバッティングに励んだ。

 素質は早くも開花し、小学時代は地元のオール東松山で4番打者として活躍。中学時代は埼玉選抜で全国優勝を果たし、日本選抜では5番を任された。高校は同じ中学の大先輩、須長監督率いる本庄一へ。1年生から外野手のレギュラーの座をつかみ、2年生では初の甲子園行きに貢献した。

 しかし、6月中旬の練習試合で左ひじに死球を受けると、それが一転した。

 腕にギプスを巻いた状態で、スタメン発表の日を迎えた。予期していた通り、名前は呼ばれなかった。「悔しくて涙が出た。やる気もなくなった」。ふてくされて練習も手伝おうとせず、須長監督からは「チームの雰囲気が悪くなる。そんな態度でどうする」と怒鳴られもした。

 目標を見失い、やめようか悩んだ。そんな時、父親から「今まで応援してくれた分、おまえが返す番だよ」と声を掛けられ、気持ちを一新。裏の舞台で応援に全力を傾ける決心をした。

 「悔いはありません。今まで支えてくれたみんなに感謝したい」。チームは敗れ、失意の夏は幕を閉じたが、表情は充実感に満ちていた。

◇仲間と母に支えられ 本庄一3年・奥田ペドロ選手

 「最後の打席は緊張してしまった」。1点を追う九回2死一塁。思い切ってバットを振ったが快音はなく、ファールフライに終わった。「仲間のため、ブラジルにいる母のためにも打ちたかった」。報道陣の前で悔し涙を流した。

 ブラジル生まれ。サンパウロ州の野球アカデミーの推薦で本庄一に入学し来日した。技術に優れチームメートから一目置かれた。言葉が通じなくても、みんな身ぶり手ぶりや片言の英語で接してくれた。「僕も日本語を覚えなければ」と必死で勉強した。

 昨夏は甲子園に出場し、サヨナラホームランも放った。しかし、今夏の打率は2割1分4厘。苦手のインコースを攻められ続けた。

 母ローザさん(56)は昨年に脳腫瘍(しゅよう)の手術を受け、自宅で療養している。試合前日の夜、家に電話した。チームが勝ち進んでいることはインターネットで知っていた。喜ぶ母に「僕はあまり打てていないんだ」と打ち明けた。「明日はきっと打てるわよ」。母のためにも頑張ろうと誓った。

 3年間の思い出を聞かれ、「みんなの支えがあってここまでこれた。この学校に来てよかった」とほほ笑んだ。日本の大学で野球を続け、プロになるつもりだ。

毎日新聞埼玉版)

◇昨夏の栄光重圧に

 「甘くはなかった」。主将の岡田は絞り出すようにつぶやいた。昨夏の北埼玉大会を制した主力を多数残し、2年連続の甲子園出場を目指した本庄一の2009年の夏が終わった。

 最大の敵は内にあった。昨年は泥臭くぶつかって栄冠を手繰り寄せた。だが、その栄光が重しとなり、挑戦者の気持ちを薄くした。

 三回、敵失と小林のスクイズ(記録は犠打野選)などで3点を先制し、なお無死満塁。だが、もう1本が出ない。あと1点ダメを押せば、その後の展開はガラリと変わったはず。逆に貪欲に1点を狙う相手の気迫に気おされたかのように、その後は打線が沈黙し五回に勝ち越しを許した。

 「相手の気持ちが上だった。この1年間の練習の中身が聖望学園の方が上だった」と須長監督。くしくも聖望学園は昨春の選抜大会で準優勝してから、チームづくりに苦しんできた。過去の呪縛から解き放たれた強さと引きずる弱さ。それが明暗を分けた。同監督も「(甲子園連続出場を)少し意識した部分はあったと思う」とうつむく。

 栄光と挫折。その二つを繰り返して真の強さは生まれる。「もっと強くなるための教訓にしたい」と指揮官。県北の新星から常勝軍団へ、本庄一はまた一回り大きくなって戻ってくるに違いない。

埼玉新聞