被災した祖父の希望に 上尾の森選手

 「じいちゃんの生きる希望になる」―。16日、県営大宮球場で行われた伝統校対決はAシード上尾が熊谷商を3―2で下した。その上尾に、人一倍強い思いを抱いてグラウンドに立つ選手がいる。三塁コーチを務める森一将(かずゆき)選手(3年)。3月11日の東日本大震災岩手県大船渡市にあった母親の登志子さん(45)の実家が、津波にのみ込まれて跡形もなくなった。幸いにも、祖父母の江刺徳直さん(74)と文子さん(73)は助かったが、思い出の品々は流された。高校野球が好きな徳直さんのためにも、一将選手は「一戦ずつ勝って、思い出をつくってあげたい」と意気込んでいる。

 大津波が迫る中、徳直さんと文子さんは高台に逃げて助かったが、「あと数秒遅かったら津波にのみ込まれていた」(登志子さん)というぐらい間一髪だった。ただ電話が寸断されて一向に連絡は取れなかった。一将選手がツイッターで安否を呼び掛けても有力な情報はなく、テレビに映る惨状を見るたびに、「もう駄目かもしれない」と毎日のように泣いていたという。

 諦めかけていた1週間後、奇跡の一報が届いた。昼休みに携帯電話を見ると、父親の辰雄さん(47)からのメール。

 「ちゃんと生きてることが確認できて、声も聞けたぞ」

 辰雄さんは震災直後から電話を400回以上かけ続け、ようやく通じたそうだ。その夜、一将選手は徳直さんと電話で話した。

 徳直さん「生きているから安心して、おまえは精いっぱい野球をやってくれ」

 一将選手「分かった。頑張るよ」

 交わした言葉は短かった。それでも、生きていてくれた安堵(あんど)感とうれしさで涙が止まらなかった。

 5月の連休中、父、母と弟の政徳さん(15)は2泊3日で大船渡市を訪れた。一将選手も誘われたが、「三塁コーチャーとしてベンチに入れる可能性がある限り、頑張りたかった」とチームに残ることを決意。心配する登志子さんに、「ご飯はコンビニ弁当でいいから、じいちゃんとばあちゃんのところに行ってきて」。美容師の姉愛実さん(22)が深夜に帰宅するのを待って、洗濯の仕方を教わって自分でユニホームを洗った。

 練習中はグラウンドマネジャーとして新井拓也主将(3年)と共にチームを引っ張る。高野和樹監督(44)をして、「仲間のために自らを犠牲にできる、チームにとって欠かせない存在」。ナインからの信頼も絶大で、今大会88人を数える部員の中から背番号20をもらった。

 16日の熊谷商戦でも、ピンチになると伝令としてマウンドに駆け寄り、屈託のない笑顔でナインをリラックスさせ、持ち場の三塁コーチャーズボックスからは打者を勇気づけ、大きなジェスチャーで細心の注意を走者に呼び掛けた。

 6年前にがんを患った徳直さんだが、治療がうまくいき、落ち着いた状態。以前は弱音を漏らすことも多かったが、今では高校野球で活躍するかわいい孫が生きがいとなっている。勝ち進めば応援のため、埼玉県に来るかもしれないという。

 「自分のユニホーム姿を見せたい」。大好きな“じいちゃん”と球場で3年ぶりの再会を果たす日を待ちわび、一将選手は右腕を全力で回し続ける。

埼玉新聞