故郷と日常奪った3・11 グラブに託した希望

 7月9日に開幕する第93回全国高校野球選手権埼玉大会まであと2週間。県内に特別な思いを抱えて大会に臨む選手がいる。川越西3年の鎌田尚幸選手(18)は福島県立双葉高からの転校生。東日本大震災による福島第1原発事故で、地元の双葉町からの転住を余儀なくされた。学校や野球部の仲間たちは離散。「それでも大好きな野球を続けたい」と川越西野球部の門をたたいた。過酷な運命を乗り越え、新たな仲間とともに最後の夏に挑む球児のひたむきな姿を追う。

 夏の大会を間近に控えた6月中旬、厚い雲に覆われた梅雨空の下で、川越西のグラウンドはいつものように明るい声と活気に満ちていた。

 その輪の中で遠慮がちにほほ笑む鎌田選手。川越西の文字が入った野球帽、そろいの青いソックス。背中に一人だけ「KAMADA」とプリントされた練習着、アンダーシャツは双葉高のチームカラーである緑色。

 身に着けているものはばらばらだが、心は一つだ。「最初は途中から入るのは無理があると思っていたけれど、みんな優しくて活動しやすい」。今は気持ちも吹っ切れている。

 しかし、再びこうして大好きな野球ができるとは思っていなかった。あの日から。

 3月11日、その日もいつも通り鎌田選手は双葉高のグラウンドで春の大会へ向け、仲間と練習に励んでいた。

 午後2時46分。最初は「少し大きい地震かな」という程度の揺れだったが、しばらくすると立っていられなくなるほど激しくなった。校庭には30メートルほどのひび割れができ、周囲の家屋が倒壊。電信柱は今にも倒れそうだった。

 「津波が来る」。一息つく暇もなく、学校に情報が入った。双葉高は海から約4キロ。町の緊急放送はすぐに高台に避難するように告げていた。野球部員は近所の高齢者が避難するのを手伝い、歩いて5分の場所に逃れた。学校の目の前にある自宅にいた祖父・甫男さん(74)、祖母・節子さん(72)も一緒だった。

 およそ30分後、遠くに見える茶色の畑が波しぶきで白く変わっていくのが分かった。津波は学校の1キロ手前まで到達。海の方に住む友人の家は流され、小学校時代の野球仲間が帰らぬ人となった。

 夜、鎌田選手は父の寿男さん(52)と合流して自宅に戻り、片付けをした。倒壊は免れ停電もなかったが、壁に亀裂が入り、部屋の扉がゆがんで開かなくなっていた。棚が倒れ、食器が散乱。「普通の地震じゃない」。「復興には時間がかかるな」。テレビを見ながら父と話し合った。

 翌日、事態は深刻さを増していた。福島第1原発1号機の中央制御室で放射線量が高まり、半径10キロ圏内の住民に避難指示が出た。双葉高は原発から約3・5キロ。「厳重な設備で絶対に放射能は漏れないと聞いていたから、びっくりした」。鎌田選手は小学校の時に原発の特別授業で教わったことを思い出していた。

 その日のうちに車でおよそ40キロ離れた川俣町の小学校に避難した。隣町の浪江町の勤務先にいた母・紀子さん(50)とも再会。そして、この日を境に野球部のチームメートや友人たちとは離れ離れになった。

 故郷を離れることを余儀なくされ、先の見えない避難生活へと放り出された。「これからどうなってしまうのだろう」。大きな不安が心を覆った。大切な思い出の品の多くは置いてきた。でも、グローブと双葉高のユニホームはバッグの中にそっと忍ばせた。

埼玉新聞