夢は咲く:徳栄、岩井隆監督を育てた「おやじ」

◇ベンチ右端で選手見守る稲垣前監督

 夕暮れのグラウンドで、花咲徳栄の選手たちが一塁側ベンチ前に整列し、静かに手を合わせる。ベンチ右端の机の上には、色あせた青色の帽子とTシャツ、手袋が入った透明のケース。花咲徳栄の監督として12年間指揮を執った稲垣人司さん(享年68)のものだ。岩井隆監督(43)を選手、指導者として育て上げた「おやじ」は今も定位置で、選手たちを見守り続けている。

 稲垣さんは創価(東京)や桐光学園(神奈川)など強豪校の監督を経て、88年に花咲徳栄の監督に就任した。「生き方や考え方、人生の道理を説く人だった。おやじが言うことで納得できないことはほとんどなかった」。稲垣さんの下で9年間コーチを務めた岩井監督はこう振り返る。

 2人の出会いは約30年前。岩井監督が中学3年の時、当時稲垣さんが指導していた高校の練習を見学したのがきっかけだった。ある高校の監督から体の小ささを指摘されたことを打ち明けると、稲垣さんは強い調子でこう言ったという。「お前の行きたい学校は、体が大きい選手を集めて打つ野球だろ。それだけじゃ勝てない。足が速いやつ、盗塁ができるやつも必要だ」。岩井監督は「何があっても一生この人についていこうと思った」と話す。

 稲垣さんは理論派の監督として知られた。野球の動きの意味から体の使い方まで選手たちが納得するまで教え込んだ。毎週1回、勉強会を開き、夜中の2時まで続くこともあった。

 しかし、稲垣さんを病魔が襲う。00年10月15日、横浜隼人(神奈川)との練習試合中に倒れ、救急車の中で息を引き取った。「おやじがいなくなるなんて考えたこともなかった。ずっと一緒に野球ができると思っていた」

 「おやじ」の突然の死で喪失感に苛(さいな)まれたが、一生懸命練習に取り組む選手たちの姿を見て、自らの気持ちを奮い立たせた。「この子たちを勝たせないといけない」。監督就任1年目の夏の県大会を勝ち抜き、甲子園初出場を決めた。

 あれから12年。春夏合わせて計5回甲子園に導いた。「野球とはこういうものだという『稲垣野球』が自分の中にあるけど、それが絶対じゃない。いろいろな戦い方を取り入れて応用していく必要がある。早く自分のスタイルを作りたいという思いがあった」

 稲垣さんの残した言葉が、一塁側ベンチに掲げられている。

 真の勝利は 勇気と執念の連続によってのみ得られる 見栄をすてて外聞をすてて 体当たりで栄光の道を切り開いてゆこう 我らの敵は自分の中にいる 自分を乗り越えよ 強い精神力と堅い意志で

 「恩師」と「教え子」の2人の思いが融合した「徳栄野球」が、夢舞台で間もなく花開く。

毎日新聞埼玉版)