乗り越えて2011夏(5)川越工・大浦裕太君

 川越工の大浦裕太君(2年)の自宅は福島県双葉町にある。東京電力福島第一原発から約3・5キロの地点だ。原発事故の影響で、4月に小高工(同県南相馬市)から転校した。

 東日本大震災が起きた時、1人でロードワークに出ていた。「あれ、揺れてる」。そう感じた瞬間、前のめりに倒れた。「でかい」。慌てて高校に戻ると、すでに避難者が続々と集まり始めていた。

 体育館で夜を明かし、翌日、福島市に避難した。双葉町役場に勤める両親はそのまま残った。野球部の練習は中止。しばらく再開されそうになかった。

 1週間後、所沢市の親類宅に移った。野球道具は持ってこられなかった。荷物は真新しいグラブとユニホームだけ。「もう福島で野球できないのかな」

 3月末、町民の避難所になっていたさいたまスーパーアリーナ。久しぶりに再会した両親は、目の下にくまができ、疲れ切っていた。「埼玉の高校で野球を続けなよ」と励まされた。

 「なじめるかな」。不安はすぐに消えた。小高工の練習方法を聞かれ、福島の方言を教えた。すぐにとけ込んだ。練習試合に投手で登板し、0点に抑えてベンチに戻るとハイタッチで迎えてくれた。「チームの一員になれたかな」。ちょっぴり実感がわいた。

 夢は原発で働くことだった。「つぶれることはない。やりがいもありそうだ」。工業高校に進学したのも就職を考えたからだ。その原発が一瞬で何もかも奪った。今ではニュースを目にするだけで腹が立つ。

 小高工は4月にようやく練習を再開した。ある日、一緒に通学していた野球部の遠藤朋哉君(同)から電話があった。次々と仲間に代わった。懐かしくて、うれしかった。「戻ってこいよ」。最後に遠藤君が言った。「うん」

 4月中旬、仲間が警戒区域に指定される前の小高工から使い慣らしたグラブを取ってきてくれた。福島とのつながりを強く感じた。原発事故が収束すれば帰りたい。小高工でまた野球がしたい。しかし、その気持ちは胸にしまっている。

 「うまくなって、戻ったら驚かせたい」。最近、制球が良くなってきた。転向したばかりの横手投げにも磨きをかけている。

 夏の大会はベンチ入りを逃したが、「選手をベストの状態で送り出したい」と思う。打撃投手として、小高工の仲間たちの優しさが詰まったグラブで、川越工の仲間たちのボールを受ける。今日も一球一球に力を込める。=おわり

◇震災による大きな影響

練習時間の減少・・・21チーム
練習試合の自粛・・・18チーム
春休みの遠征中止・・・17チーム

(今大会参加校への監督アンケートから)

 練習時間が減った理由の多くは「節電のため照明を使えない」。遠征を中止したチームの中には、福島県郡山市と試合する予定だったチームもあった。

◇少人数チーム

 出場校の監督アンケートによると、部員が20人に満たないチームは24チーム。部員以外の経験者や、サッカーなどほかの運動部に応援を頼むケースもある。幸手幸手商は統合に伴い、連合チームを組んで出場する。

朝日新聞埼玉版)