よみがえれ上尾、熊商野球<1>名将の教え脈々 OB監督12人、県内で活躍

 夏の埼玉大会で史上初の3連覇を達成した浦和学院森士監督は上尾OB。現在、上尾OB監督は森監督を含め9人。熊谷商OB監督は、江原現監督を含めて3人が県内で活躍している。名将2人の遺伝子は今年も夏の大会を彩ってくれそうだ。

<1>名将の教え脈々 OB監督12人、県内で活躍

 「この球場にこんなに観客が入ったのは記憶にない」。昨年7月21日の市営大宮球場、ネット裏で県高野連の役員がつぶやいた。第1試合で熊谷商がシード成徳大深谷に快勝。第2試合では上尾が登場した。内野席は満員。外野席も開放された。アゲコーとクマショウ。根強い人気を実感させられた日となった。

 「2強」と言われた時代があった。ともに故人となったが、上尾の野本喜一郎と熊谷商の斉藤秀雄の両監督がしのぎを削った昭和の後半。1964(昭和39)年から84年にかけて夏の甲子園に上尾が4度、熊谷商は5度出場した。甲子園でも上尾は75年の第57回大会で原辰徳(現セ・リーグ巨人監督)らを擁した東海大相模(神奈川)を準々決勝で下して、4強入り。熊谷商も第46、52回大会でベスト8に進出している。

 私学が台頭すると、そもに甲子園から遠ざかった。年号が平成に変わってからは、序盤敗退もあったが、昨夏は久々に伝統校の意地を見せ、オールドファンを喜ばせた。

 上尾は4回戦で優勝候補の花咲徳栄に逆転勝ち。準々決勝では越谷西をコールドで下し、準決勝も春日部に快勝。24年ぶりの夏の甲子園にあと1勝と迫った。

 選手たちは勝つたびに増える観客に戸惑った。昨年の主将浅沼幸平は「上尾の伝統のすごさを知りました」と感動。昨年2月下旬、浅沼は斉藤秀雄監督(現北本監督)に呼び出され、「おれは3月いっぱいで異動する。後は頼む」と言われた。冬を越え、夏に向けてこれからという時期。不安が渦巻いた。

 だが迷っている暇はなかった。「結局やるのは自分たち」とミーティングで気持ちを引き締めた。チームに自覚が芽生え、逆に結束力が強まった。メンバー外の選手たちも変わった。グラウンドマネージャーの堀越竜太は「できることがあればなんでも言ってくれ」と浅沼に声を掛けた。「本音は悔しいはずなのに。こんないいチームはないと心の底から思い、彼らのために勝つんだと思った」と浅沼。

 黒字にオレンジの縁取りで上尾高校の文字が入った伝統のユニホーム。昨年、4番の芳賀直樹は「このユニホームを着られるという誇りがある。同時にメンバー外の仲間のためにも、という気持ちを持っていた」。上尾の誇りと仲間を思う気持ちが支えた躍進だった。

 熊谷商は4回戦でシード松山に延長の末、逆転サヨナラ勝ち。準々決勝でもシード成徳大深谷に快勝。81年の甲子園出場以来、27年ぶりに準決勝に進出した。「知らない人から『頑張れ』『おめでとう』と声を掛けられた。伝統とは、ここまですごいのかと実感した」と昨年、主将を務めた坂田翔太は振り返る。

 大会直前、エース岩上康輔が練習試合で右親指を骨折。チームは動揺した。マウンドを託されたのは背番号「5」の菅原和樹。バッテリーを組んだ坂田は「何としてでも勝ちたい」一心で、熊谷市内で居酒屋を営む元コーチでOBの橋本哲夫の元に何度も足を運んだ。カウントの取り方や配球を徹底的に2人で見直した。菅原の持ち味を最大限引き出すために、陰の努力を積み重ねた。

 そのかいあって本番は、菅原が連日快投。2年生エースをバックがもり立てての4強に、江原正幸監督は「今までで一番弱いチームだと思っていたのに」と驚きを隠さなかった。坂田は「『やればできる』との熊商らしさがやっと出せた」。「やりゃあできるよ」は故・斉藤監督の身上。躍進の裏側には、熊谷商の伝統が息づいていた。

埼玉新聞